再会
「譲、キスして」
マオの甘えるような声に、譲は片眉を上げてため息をついた。
「キスはしない」
「なんでさ…… ね、お願い」
「せがんだってダメだ。禁断症状が出たときにヤるだけって約束だろ」
「ケチ……」
不満げに唇を尖らせるマオの身体から萎えたペニスを抜き取ると、譲はベッドサイドに腰掛けて煙草に火をつけた。紫煙が天井の低い部屋にゆっくりと広がっていく。
「ねえ、譲もGAやってたんでしょ。穴を埋めたくはならないの?」
譲の指先がぴくりと震えた。
「バカは休み休み言えよ。何年も前の話だ」
譲は煙と一緒に、脳裏に浮かんだ過去の記憶を吐き捨てた。
「俺は出かける。お前も仕事が終わったらすぐに帰れよ」
まだ吸い代の残る煙草を灰皿に擦り付け、風呂場へと向かう。烏の行水のようなシャワーを浴び、髪が濡れているのも厭わずに家を出た。
◆
「喂」
久方ぶりに耳にする香港訛りに譲は足を止めた。いかにも飛仔らしい男が譲の肩を抱く。
「白紙扇叫你去見佢(白紙扇がお呼びだ)」
「邊個白紙扇? 我同三合會冇關係(白紙扇だと? 俺は三合会と関わり合いになった覚えはない)」
「你去咪知囉(行けばわかる)」
男は二つに折りたたんだ小さな紙切れを押し付け去ってゆく。紙を広げると住所とアルファベット、部屋番号が走り書きされていた。譲はこの住所に見覚えがあった。彼がある男と共に幼少期を過ごした雑居ビル。数年前に取り壊され、今ではラブホテルが建っている。ここからはメトロで四駅だ。譲は踵を返すと地下に潜った。
地下鉄に揺られ、譲はある男のことを思い出していた。
十八年前にドラッグ中毒だった母親の腕から譲を取り上げた男。日本語さえ満足に話せなかった譲に広東語を教えた男。八年前に譲の臍にピアスを残して日本から突然姿を消した男。半月前に横浜で白紙扇と呼ばれていた男。
到着を告げるアナウンスが流れ、ドアが開く。この駅で降りるのは数年ぶりだった。雑居ビルが解体される直前、最後にあの屋根裏部屋を見納めようとここまで来たことがある。だが入口にはシャッターが下りており、譲が隠し持っていた鍵も既に使えなくなっていた。それ以来、この辺りには意図的に近づかないようにしていた。
地下鉄の出口に続く階段は相変わらず薄汚れていたが、地上は再開発で様変わりしていた。駅前には真新しいテナントビルが立ち並び、一階に入るスイーツショップには若い女が列を成している。そこには香港の三合会が頻繁に出入りしていた頃の面影はない。それでも一本路地に入れば使用済みの注射器が地面に転がっているような如何わしさを残している。腐臭を香水で上塗りしたような歪な街がそこには広がっていた。
雑居ビルの跡地に建ったラブホテルはビジネスホテルのような体をしていた。譲はホテルの自動ドアをくぐりフロントのベルを鳴らす。カーテンの奥から東アジア系の女が顔を出した。女は譲を一瞥し、ふんと鼻を鳴らしてフロントの向かいに設置されているパネルを指す。
「先に選ぶ、部屋」
「1109号室の客に用がある」
女は譲を頭のてっぺんから爪先までじろりと見た。
「アンタ、見ない顔ね。新人?」
女は譲をコールボーイだと勘違いしている節があったが、譲は特に訂正もしなかった。
「アイツら、香港マフィアよ。逆らう、殺される。気持ちよくする、チップくれる」
女は冗談めかして言う。譲が「多謝提醒」と言うと、驚いたような顔をした。
「嘩,估唔到你廣東話咁叻喎(驚いた、アンタの広東語、上手いわね)」
女はすっかり気を良くしてエレベーターの制御盤を操作する。譲が自動的に口を開いたエレベーターに乗り込むと、11のボタンが点灯していた。およそ十秒ほどで譲を最上階へと運んでゆく。1109号室は探すまでもなかった。いかにも正經人ではない、派手な開襟シャツを着た男がドアの前に立っていたからだ。男は譲に、上着を脱いで両腕を上げるように言った。譲は大人しく従う。
「邊有帶武器啊(武器なんて持ってるわけないだろ)」
戯けた風に言ってみるが、男は眉の一つも動かさなかった。男は譲のヒップポケットから携帯電話とキーケースを取り上げる。それから一言、「入去啦(入れ)」と言って1109号室のドアを押し開けた。刹那、ドアの向こうに立ち込めていた、甘く煙たい香りが鼻を突いた。男が譲を部屋に押し込む。背後でドアが閉まる音がして、譲はドアを背に立ち止まった。
部屋はクイーンサイズベッドとソファ、ローテーブルがあるだけのシンプルな内装だ。広さこそあの屋根裏部屋の倍以上はあるが、家具の配置は当時を彷彿とさせる。
ベッドには男がスーツと革靴のまま横たわっていた。ジャケットはハンガーに掛けることもせずにソファに投げ捨てられている。今や三合会の白紙扇となったこの男は、簡素なラブホテルに似つかわしくないビスポークシャツがしわになるのも厭わないようだ。男は譲が入ってきたことに気がつくと、ゆっくりと躰を起こして入口の方に顔をやった。
「阿讓、久しぶりだね」
男は譲に向かって微笑みかける。その顔は二人が離れていた八年の年月を確かに刻んでいたが、その歳月が元より端正な顔を却って美しく見せていた。
「沈昊嵐」
「昔のように嵐哥とは呼んでくれないの?」
昊嵐は両腕を広げた。
「嚟啦,阿讓(来いよ、阿讓)」
昊嵐の広東語は相変わらず、黒糖を溶かして煮詰めたような甘ったるさを含んでいる。譲はたった漢字二文字で全身が熱され、どろどろに溶けていくような感覚に包まれた。ここに来る前、この男を一発殴ってやりたいと思っていたのだが、足は自分を溶かしてできた沼に嵌まり込んでしまったように動かない。昊嵐はベッドから立ち上がり、ゆっくりと距離を詰めてくると譲の眼鏡を持ち上げる。
「怖い顔をするなよ。お前にずっと会いたかったんだ」
「俺は会いたくなかった」
譲は昊嵐の手を払いのける。その衝撃で眼鏡が床に落ちて軽い音を立てた。
「置いていったことを怒っているのか?」
昊嵐が眼鏡を拾い上げながら言う。譲はそれには答えなかった。何を言っても昊嵐の望む答えになってしまうのが腹立たしかった。
昊嵐はしばらく譲が口を開くのを待っていたようだったが、そのうち諦めたようで、その端正な顔を互いの鼻先が触れるほど近づけた。昊嵐の狼のような目が譲をじっと見つめる。譲は決して目を背けるまいと努めた。
長い静寂のあと昊嵐が先に動いた。鼻先が触れ、次に上唇が触れて、一度静止した。次は譲が動いた。下唇が触れ合う寸前、譲は口付ける代わりに、昊嵐の下唇を躊躇なく噛んだ。昊嵐は眉を少し上げた以外には身動ぎ一つしなかったが、譲が離れたときに官能めいた小さな息を漏らした。
「哥哥を噛むなんて悪い狗だ。躾が必要だな」
下唇には朱が滲んでいた。昊嵐はそれを親指で拭い、譲の唇に擦り付けた。その勢いのまま譲をドアに押し付け、耳に息がかかるほどの近さで囁いた。
「喂,我可愛嘅狗狗.好好咁嗲吓我啦,好似以前咁(ああ、可愛い俺の犬。上手におねだりしてみな、昔みたいに)」
譲は胸が波立つのを感じた。額に汗が滲む。この男の香港訛りを耳にすると、八年間抱いていた復讐心は霞のように遠のいてしまう。代わりに満ちてくるのは、もっと単純で、もっと幼い感情だ。譲は膝から崩れ落ちた。
昊嵐は膝をつき、譲の顎を掬い上げるように持ち上げた。
「阿讓,你忍心唔記得?(阿讓、忘れるなんて薄情なやつだ)」
譲はその手を振り払おうとしたが、耳を甘噛みされて力が抜けてしまう。
「我哋咁恩愛過(あんなに愛し合ったのに)」
昊嵐の言葉は甘い蜜になって髄液の代わりに脳を満たす。目の前にいるのは三合会の白紙扇ではない。幼い譲を泥沼から掬い上げ、『嵐哥』と呼ばせた愛しい哥哥だ。
「阿讓,好似以前咁,叫返我嵐哥啦(阿讓、昔みたいに嵐哥と呼んでよ)」
それを聞いた瞬間、譲の中で何かが完全に決壊した。
「嵐哥,嵐哥……!」
「終於肯叫返我啦,阿讓(ああ、やっと呼んでくれた、阿讓)」
「嵐哥,你以前點解要掉低我(どうして置いて行ったんだよ)」
「咪嚟接你囉(迎えに来てやったじゃないか)」
低く囁かれた言葉に涙が溢れおちた。譲の頬を伝う雫を昊嵐はそっと拭う。そして、かつて小さな譲の手を引いてやったときのように譲の手を取り、部屋の中央に誘った。昊嵐は譲を膝の上に乗せ、二、三度、髪を撫でてやってからシャツの釦に手をかける。昊嵐の長い指が焦れったいほどゆっくりと釦を外すのがもどかしくて、譲は残りの釦を自分で外してしまった。昊嵐は待てのできない狗に仕置きするように、譲の首筋を柔らかく噛む。
「あ……っ」
譲の喉から小さな息が漏れた。それから昊嵐は黙ったまま、譲の表面ばかりを撫でた。譲が焦れて躰を揺らすのを愛おしげに眺める。その指がふと臍の上で止まった。かつて昊嵐自らの手で穿ち、嵌めこんだピアスが、今も小さな窪みに収まっている。
「原來重未除低(まだ外してなかったのか)」
昊嵐の切なげな眼差しに、譲はふいと横を向いた。昊嵐は譲を膝立ちにさせると、臍の縁に舌を添わせ、ぐるりと一周させる。譲は臓器に一番近い皮膚を責められる感覚に身震いした。昊嵐は臍の周囲を丹念に舐めていく。神経が過敏な部分を刺激される、むず痒さと紙一重の快感に身を委ねていたが、突如、肉ごとピアスを引き千切られるのではないかという不安に駆られた。
「嵐哥、嫌だ」
昊嵐は譲を上目で見遣る。怯えた顔で見下ろす譲を見ると、にっと笑って舌を突き出してみせた。舌の中央には小さな金属色のボールが二つ並んでいる。一つは譲の開けた孔だ。その時のことを思い起こす暇さえ与えず、昊嵐は臍に深く口付けると一息に吸い上げた。ピアスを避けて孔の奥に舌を這わせる。時折ピアス同士がぶつかって、かちかちと音を立てた。譲の額から汗が一滴、顎を伝って昊嵐の顔に落ちた。臍の奥を突かれる度に一滴、また一滴と汗が垂れる。昊嵐は構わずに舐め続けた。
「嵐哥、やだ、怖い」
「驚乜嘢啊?(何が怖いんだ?)」
昊嵐は顔を上げて譲を見つめる。譲は頬を紅潮させ、言葉にするのを躊躇うように目を泳がせていたが、やがて消え入りそうな声で言った。
「……咪咬我(噛まないで)」
昊嵐は首を傾げ、それから今日一番の笑顔を見せる。そして、譲の臍に嵌まるピアスのボールに歯を掛け、軽く引っ張った。譲はこれから来る痛みに備え、身を固くした。昊嵐の肩に添えた手に力が籠る。だが拍子抜けしたことに、昊嵐はあっさりとピアスを解放した。
「我做過乜嘢你唔鍾意?(俺がお前の嫌がるようなことをしたことがあったか?)」
ある、と譲は思った。何度だってある。麻雀に負けた夜は特に酷かった。譲を狗と呼びながら、どちらが狗かわからないほど譲の躰を噛むのだ。だが何時しか譲自身がその行為を切望するようになっていったのもまた事実だ。
昊嵐は譲を再び自分の腿に座らせると、汗で額に張り付いた髪を優しい手つきでかき上げた。そのまま指を顔の輪郭に這わせ、首に浮いた血管をなぞる。
「嚟啦(おいで)」
譲は言われるがまま、昊嵐の首に腕を回した。昊嵐はその首筋にそっと口づける。何度か唇を離しては触れるだけを繰り返し、やがて食むような動きに変えていく。譲はその度くすぐったそうに身を捩った。昊嵐は譲の表面を十分に味わうと、一呼吸置いてから、今度は肉が千切れるほどに噛みついた。
「痛い、痛い! 嵐哥やめて!」
あまりの痛みに譲は色を失い、昊嵐の背中に爪を立てた。昊嵐は構わず、更に力を込める。譲の皮膚が歯列の形に深く沈み込んだ。シャツ越しに爪が食い込む。血が滲むほど爪を立てても昊嵐は微動だにせず、執拗に同じ場所を噛んだ。
「真係唔鍾意咩?(嫌じゃないだろう)」
昊嵐はようやく顔を上げると、青黒い血の滲む首筋をぎゅっと掴む。鈍い痛みに混ざり、痺れるような快感が這い寄ってくる。譲のペニスはいつの間にか充血していて、昊嵐がもう片方の手で服の上から先端をそっと撫でた。痛みと快感が綯い交ぜになった感情が譲を支配し、目から涙が溢れた。
「嵐哥,錫啖啖(嵐哥、キスして)」
昊嵐を迎え入れようと半開きになった口の中に、ゆっくりと舌を差し入れられる。譲はすぐさま絡め取り、反対に押し入った。昊嵐の口内を譲の熱い舌が暴れ回る。昊嵐はそれに応えながらファスナーを下ろし、屹立したペニスを扱いてやる。譲は絶え間なく与えられる官能に息が続かなくなったのか、ふっと顔を上げて昊嵐の顔を見た。
「做咩啊?(どうした?)」
昊嵐は次々に玉を成す譲の目尻をそっと拭った。
「咬我啦(噛んで)」
譲は舌を突き出した。最後に見た昊嵐の顔は悪戯っぽく笑っていた。口内に鉄の味が広がり、譲は昊嵐の手の中で果てた。
◆
眠っていたのはほんの三十分ほどだった。目を開けると隣に昊嵐はおらず、代わりに眼鏡と真新しい服が一揃え、そして昊嵐の細佬に取り上げられた携帯電話とキーケースが枕元に置かれていた。
「目が覚めたのか」
ソファから昊嵐の声がした。既に身支度をして煙草を燻らせている。譲が躰を起こすと昊嵐も火を消して立ち上がり、ベッドサイドに腰掛けた。
「日本ではまだこんなローテクなものを使っているんだな」
昊嵐は譲の携帯電話をつまみ上げ、慣れた手つきで開閉する。
「お前の一番はまだ俺なんだ」
調戯うような言い方に譲はカッと頬を上気させた。
「返せよ!」
「ほら」
携帯電話が放物線を描いて飛んでくる。譲は慌ててそれを受け止めた。昊嵐は譲に躙り寄ると、乱れた髪を整えてやってからゆっくりと口を開いた。
「阿讓、俺と一緒に香港に来い」
ようやく切り出された本題に譲の頬の熱がすっと引いた。続いて甘い熱に浮かされていた頭がしんと冴え渡っていく。
「八年前、俺を置いていったくせに、今さらになってそれを言うのか? まあいいさ。それでアンタに囲われて一生アンタの狗として暮らせって? 最高の気分だな」
「阿讓、これはお願いじゃない、命令だ。お前は沈昊霆に目をつけられた」
沈昊霆、三合会の紅棍にして昊嵐の異母兄。そして、昊嵐に一つ目の孔を開けた男だ。ここでその名が出ることは想定内だったが、譲は自分が少し苛立っているのを感じた。
「三合会の紅棍に? コールボーイ上がりの風俗店マネージャーに何ができる」
「お前がGAを嗅ぎ回っていることも、走狗と繋がっていることもわかっている。阿讓、三合会に仇なす者を昊霆は赦さない」
「それで、チンポをしゃぶって赦しを乞えって?」
昊嵐は一瞬、眉を吊り上げるような仕草をしたが、それ以上は譲の煽りに取り合わなかった。
「昊霆はお前が香港に来るならお前を赦すと言っている」
「俺は昊霆に赦されるようなことをした覚えはない。昊霆に赦されたいのはアンタだろ。結局アンタはお兄ちゃんが大好きで、大好きなお兄ちゃんに逆らえないってわけだ」
長い沈黙が流れた後、昊嵐は譲の肩を抱いた。そして反抗的な子どもをあやすような口ぶりで言う。
「お前の言うように、俺が昊霆を愛し、恐れているのは真実だ。俺はまだあの男の開けた孔を塞げずにいる。阿讓、お前の開けた孔もだ」
「それで? あの時アンタは俺と昊霆を天秤にかけて、昊霆を選んだんだ。そして今も昊霆の命で俺の前に現れた。そんなアンタに今さら何が出来る」
譲は相手が最も傷つくであろう言葉を選んで並べる。だが昊嵐は至って冷静だった。
「阿讓、あの日お前を置いていったことを詫びてほしいなら何度だって詫びてやる。だけどね、阿讓。俺がお前を選ばなかったんじゃない。選ばなかったのはお前だよ」
「どういうこと」
譲はここでようやく、ずっと伏せていた顔を上げて昊嵐の方を向いた。電球色のフロアランプが昊嵐の顔に影を落とし、昊嵐がどんな表情をしているのかはわからない。肩を抱く昊嵐の手に力が籠り、譲は突如抱き寄せられる形になった。
「離せよ」
「一週間だ、阿讓。一週間後に細佬がお前を迎えに行く」
昊嵐はそこで一度言葉を切った。そして、譲の耳に唇を押し当てるようにして囁く。
「だがもし、それよりも早く結論が出たなら、一番を押せばいい」
言うや否や昊嵐は譲を突き放した。譲はベッドに倒れ込む。譲が身を起こすよりも早く昊嵐は部屋を出ていった。一人残された譲は捨て鉢になって枕をドアに投げつけた。
「クソったれ!」
その言葉が昊嵐に向けられたものなのか、あの男に一度でも絆されてしまった自分に向けられたものなのか、譲自身にもわからなかった。
譲は体液でべたつく服を脱ぎ捨て、熱いシャワーを頭から浴びた。浴室に据え付けられた鏡にふと顔を向けると、首筋には幾重にも歯型の形に赤紫の円環が重なっている。そこには湯を当てても熱いという感覚がない。試しに手で触れてみるが、圧迫感はあれど、表皮には痺れるような感覚が残るだけだ。譲は苛立ち混じりに、タイル張りの床に唾を吐き捨てた。
シャワーを出て時計を見ると二十二時半を回っていた。昊嵐の用意した服を着るのは癪だったが、袖を通してみると驚くほど譲の躰に馴染んだ。それがまた苛立ちを増幅させる。譲は携帯とキーケースをヒップポケットにねじ込むと部屋を出た。
「嘩,你仲生勾勾喎(あら、無事だったのね)」
フロントから女が顔を出した。
「頸度有草莓,睇嚟生意幾好喎(キスマークまで付けちゃって、商売繁盛だね)」
女の調戯うような言葉に、譲は黙って襟を立てた。
「下次佢再叫你就好喇(また呼んでもらえるといいね)」
「發咩夢啊(馬鹿言うなよ)」
女の笑い声を背中で受け流し、譲は足早にロビーを横切った。自動ドアが開くと晩秋の冷気が襟元に流れ込んだ。立てた襟の下で、昊嵐の残した痕がまた熱を持ち始めていた。
◆
玄関の扉を閉めた瞬間、譲は冷たい床に崩れ落ちた。一度は冴え渡った頭だったが、今はまたじんじんと痺れていた。脳裏に焼き付いた昊嵐は特上の笑みを浮かべ、甘い声色で囁いてくる。それはもう何年も前に断ち切ったGAの禁断症状のようで、譲は自分で自分の肩を抱いた。
どのくらいの時間が経ったのだろう。玄関の鍵が二度回る音がして、マオが入ってくる。譲はふと我に返った。
「わっ、何してるんだよ!」
靴も脱がずに玄関先に倒れ込む譲を見てマオは驚きの声を上げる。
「どうしたの、こんなところで寝ちゃって。酔ってるの?」
譲は目線だけをマオの方に向けた。
「なんでもない」
マオが肩を貸そうとしゃがみ込むと、譲からいつもとは違う香りがすることに気がついた。よく見ると服装も譲が出掛けに身につけていたものとは違っている。
「知らない香水の匂いがする」
譲は何かに気がついたように僅かに躰を起こし、袖口を鼻に近づけた。ホテルで着替えたときには気が付かなかったが、シャツからは昊嵐が良く使っていた香水の、焦がした砂糖と煙草を混ぜ合わせたようなスモーキーな香りがした。譲は全身の力が抜けるような感じがしたが、マオが物言いたげな顔をしているのを見つけ、じっと堪えた。
「ねえ、譲。怒らないで聞いて」
マオはそこで一息つき、そして本題を切り出した。
「ゴールデンレトリーバー拾ってきちゃった」
譲は軽く目眩がするのを感じた。マオは続ける。
「あのね、譲、本当に犬ってわけじゃないんだ。つまり、人間だけど…… 譲、ごめんなさい」
どうして人はこうも簡単に誰かを拾ってしまうのか。最後まで責任を持てないということを考えないのだろうか。譲が昊嵐に拾われた日、譲がマオを拾った日が譲の脳内を走馬灯のように駆け巡る。マオが譲を抱きしめた。玄関から這い寄る冷気に晒され氷のように冷え切った譲の躰を、マオの体温が包み込む。
「譲……」
譲はこの家でひとり取り残されたマオを想像してみた。譲のいない家は、マオ一人には広すぎる。譲は小さく溜息を吐いた。
「お前の部屋から出すな。餌代はお前が出せ」
マオは破顔し、譲の頬に勢い良くキスをした。