goldenApple

goldenRetriever

「譲ゆずる、キスして」

 譲がキスをしてくれないことはわかっていても、口にしてしまう。させてくれないことがわかっていると尚更燃えるってやつだ。

「キスはしない」

「なんでさ…… ね、お願い」

「せがんだってダメだ。禁断症状が出たときにヤるだけって約束だろ」

「ケチ……」

 不満げに唇を尖らせると譲は興が削がれたようで、僕の躰から出ていった。譲はベッドサイドに腰掛けて煙草に火をつける。煙草は嫌いだけど、煙草を吸ってる譲は嫌いじゃない。煙を吐くときに形の良い唇がふっと尖る。

「ねえ、譲もGAクスリやってたんでしょ。穴を埋めたくはならないの?」

 僕はわざと「穴を埋める」という何とでも解釈の出来そうな言葉を選ぶ。

「バカは休み休み言えよ。何年も前の話だ」

 譲は平然と言ってのけたけど、僕は知っている。譲がたまに遠い目で誰かを思い出していることを。その時の譲はネコの顔をしてる。

「俺は出かける。お前も仕事が終わったらすぐに帰れよ」

 譲は少々、過保護なところがある。でもこの親心みたいなものは僕だけに発揮されるわけじゃなくて、譲が囲ってる――店子として抱えているコールボーイ全般に言えることだ。少し微睡んできたところで、さっきシャワーを浴びに行ったばかりの譲がもう玄関の扉を閉める音が聞こえた。


 ◆


 僕はいつも17時半に家を出る。18時ぴったりにお店について、18時から24時が待機時間。これでも遅刻しないだけマシだと思う。予約が入ってる時はもう少し早く出る。

 今日は予約が2件。18時のコンドーさんと20時のサイトーさん。コンドーさんはいつも90分コース。ノンケでM性感みたいなプレイが好き。僕には挿れない。

 サイトーさんは僕が譲の店に移籍する前――GAクスリを使ってたときからのお客さん。僕に教育的指導をするのが好き。

 こういう人とする時はやっぱりGAが欲しくなる。GAが効いている間だけは痛みを感じない。躰も、心も。だけどどんなクスリも良いコトがあれば悪いコトもある。GAが切れると一人じゃ生きていけないって気持ちになる。ぽっかり空いた穴を埋めたくなる。心も、躰も。つまり、ヤりたくなる。中にはこの離脱症状を仕事に利用するコもいる。

 僕はそうなる限界ギリギリのところにいて、寂しくて、寂しくて、もう死んじゃえって思ったときに譲に拾われた。譲は猫を拾うよりも簡単に僕を拾って、それからもう一年が経つ。

 コンドーさんの予約に合わせて、18時の10分前に店についた。店長が遅いと一喝。

「ランは起こしてくれなかったのか?」

 ランは譲がコールボーイをやってたときの名前。由来は知らない。この店長とは旧知の仲、らしい。

「一発ヤッたら眠くなっちゃった」

「バカヤロ、早く支度しな」

 割り当てられた個室に入る。18時きっかりにコンドーさん登場。コンドーさんは「うん」と「あー」「うー」しか言わない。

「外、寒かった?」「うん」「今日はなにしよっか」「あー」

 どんなプレイをするかは聞かなくても決まってる。コンドーさんにはコンドーさんのシナリオがある。それを月に2回、ビデオテープを巻き戻しては再生するようなプレイ。

 3回目の「うん」を聞いたらタイマースタート。シャワーブースに移動して、生白いトドみたいな躰を洗う。その辺の女子よりも大きなおっぱいを持ち上げてそっと洗うと、コンドーさんはその大きな躰を揺らして「うー」と言った。

 シャワーが終わったら僕はコンドーさん指定のパンツに履き替える。今日はフリルの付いた白い紐パン。もちろん女物。コンドーさんとのプレイで変化があるのはこのパンツだけ。

 プレイの間、コンドーさんは絶対に僕に触らない。トドみたいな巨体をベッドに横たえてじっと動かない。僕はシックスナインの形でコンドーさんのお尻を弄りながら、腹肉に埋もれて短くなったコンドーさんのソーセージを味見する。コンドーさんは女物のパンツに包まれた僕の下半身を眺めてる。ノンケのコンドーさんがパンツの奥に夢想しているものは何なんだろう。

 タイマーが残り24分になる。僕はラストスパートをかけた。コンドーさんが「あー」と声を漏らす。タイマーがきっかり23分になったとき、コンドーさんは「うー」と唸って僕の口の中でフィニッシュした。

 コンドーさんが帰って30分後にはサイトーさんのいるホテルに移動。休む暇なんてない。出掛けに待機室を覗くと、リクとマサキが寝転がって携帯ゲーム機を突き合わせてた。

「帰ってきたら混ぜて」

 二人は黙って親指を立てた。

 ホテルまでは歩いて移動する。臭豆腐みたいなニオイがする街。液晶化されたホストの看板が太陽みたいに眩しく照りつける。ホストは女の子から金を巻き上げる。女の子はおじさんから金を巻き上げる。おじさんが汗水垂らして稼いだお金はホスト看板の光熱費になるのかもしれない。だとしたらこの眩しさはおじさんの命の輝きだと思う。

 サイトーさんのいるホテルには19時50分には着いていた。目の前のコンビニで時間を潰して、20時きっかりに部屋の前へ。20時を3分過ぎたところを見計らってチャイムを押す。サイトーさんは「遅い」と言って僕の頭を小突いた。

 僕の仕事はサイトーさんが僕を教育する口実を作ること。サイトーさんは大企業で管理職をやっているらしい。部下を教育するのが仕事。だけど僕は知っている。サイトーさんが緑のチョッキを着て、市営駐輪場でロックの掛かっていない自転車の前輪にチェーンを通してること。

「これは教育だからな。お前が気持ちよくなっちゃいけないんだぞ」

 サイトーさんの常套句。僕はいつも笑っちゃいそうになる。そういうのは気持ちいいセックスができる人の言うことだ。サイトーさんのセックスはデタラメに奥を突くだけで全然良くない。だけど僕はサイトーさんのお望み通りアンアンと声を上げて、サイトーさんは僕のお尻を叩く。3分も経たないうちにサイトーさんはシューシューと蒸気機関車みたいな音を立てて、僕の中に発射した。

 イッたあと賢者になる人って多いけど、サイトーさんはいつも謝っている。僕を叱ったこと、僕を叩いたこと。僕はそんなサイトーさんを膝枕してやる。この街ではみんな誰かに赦されたがってる。

 店に戻ったのは22時前。マサキはいなかったけど、リクは相変わらずゲームをしている。猫をオトモにモンスターを狩るやつ。

「ずっとやってたの?」

 リクは首を横に振った。

「ショートが1本」

「ふうん」

 鞄から携帯ゲーム機のポーチを取り出したところで店長が顔を出した。

「マオ、リク、3Pで120分。ヨシダさん」

 リクと僕は顔を見合わせた。

「まだこれ終わってない」

 リクが呟く。「バカタレ、仕事が優先だ。俺がやっておいてやる」店長はいそいそとリクから携帯ゲーム機を取り上げた。

 ホテルまで、二人で手を繋いで歩く。リクは目を離すと直ぐにどこかに行っちゃうから。リクはふと、ショウガラゴみたいに大きな目を僕の方に向けた。

「ねえ、マオは3Pしたことある?」

「うん。お客さんが二人だけど」

「3Pって色んなパターンがあるでしょ。ボク、この前マサキと二人でお客さんをサンドイッチにしたんだ」

「ふうん」

「他の人には内緒にしてほしいんだけどね、ボク、マサキが好きなんだ」

 うん、知ってた。たぶん店長も知ってる。知らないのはマサキだけかも。リクはまん丸の目をさらにまん丸にして、デジタルサイネージのホスト看板を反射してキラキラ輝いていた。

「マサキがお客さんに挿れて、お客さんがボクに挿れたんだ。そしたらさ、それってもうマサキがボクに挿れてるようなものだと思わない?」

 性の三段論法。そんなわけないのに僕はちょっと納得してしまった。

 ヨシダさんはいつもフリーで入る、眼鏡をかけた人。コンドーさんやサイトーさんと比べると若いけど、鳥の巣みたいな頭には白髪がたくさん混じってる。白髪がなければ20代に見えるかも。躰も性格もふわふわしてる。恋人みたいな甘いプレイが好き。

 僕とリクはたっぷりと時間をかけて、ヨシダさんの躰を隅々まで舐める。僕が左半分、リクが右半分。一つしか無いパーツには触らない。ヨシダさんは切なそうに僕たちを見てる。まだまだ焦らしたかったけど、先にリクが折れた。リクは淫乱だ。お客さんを悦ばせるのと同じくらい、自分も愉しみたいタイプ。

 ヨシダさんとリクが恋人ごっこをしてる間、僕はふとリクの言ったことを思い出した。僕がヨシダさんに挿れて、ヨシダさんがリクに挿れたら、それは僕がリクとセックスをするのとおんなじなんだろうか。僕は大福を2つ重ねたみたいなヨシダさんの太腿を眺めた。

「ねえ、ヨシダさんに挿れたい」

「僕に?」

「うん。今日はそういう気分」

「入らないかもしれないよ」

「こっちに」

 ふわふわした大福の間に指を滑り込ませると、ヨシダさんは少し顔を赤くしてはにかんだ。僕はゆっくりとヨシダさんのやわらかな肉に沈んでいった。ああ、僕は今、ヨシダさんを通じてリクとセックスをしている。ヨシダさんの肩越しに、リクの小さな背中が弓のように反った。


 ◆


 今日は90分18,000円が2本と120分22,000円が1本。衣装指定オプションが1,000円。バック50%でしめて30,000円。500円は小銭がないからおまけしてもらった。

 帰り道で24時間オープンのハンバーガーチェーンに寄って、ハンバーガーセットが2,500円。僕のパンツはハンバーガーよりもチープってこと。ハンバーガーが1つ100円だった時代があるって聞いたけど、本当なのかな。1円玉があったっていうのも信じがたい。見つけたら100円で買い取ってくれるらしいけど、100円じゃブラックサンダーも買えない。

 僕はいっつも野良猫を3匹見たら家に帰ることにしてる。この街は野良猫だらけ。5分も探せば1匹見つかる。1匹見つかったら周辺を探せば残り2匹なんて直ぐだ。

 ハンバーガーチェーンを出た僕は大通りを外れて路地裏に入る。定番の猫スポット。だけど今日見つけたのは猫じゃなかった。湿った地面に寝そべっていたのは金髪のゴールデンレトリーバーだった。

 このとき直ぐに引き返すべきだったんだ。でも僕の足は瞬間接着剤で地面に固定されたみたいになってしまった。ゴールデンレトリーバーはゆっくり躰を起こして僕を見た。垂れ目。うん、想像通り。僕はこいつにラッキーと名付けた。

「おはよう」

「……おはよう」

「俺、行くところがないんだ」

 ラッキーはじっと見てくる。潤んだ瞳で。そんな顔したってダメだ。

「変なもの拾ってくるなって言われてる」

「飼い主がいるんだ」

「飼い主じゃない。マネージャー」

 風俗店のマネージャー。嘘は言ってない。

「ふうん」

「もう帰らなきゃ。ほかを当たって」

 漸く接着剤が取れた僕は歩き始めた。ラッキーがのんびり追いかけてくる気配がして、僕は大股で歩いた。でもラッキーのほうが僕よりずっと背が高くて、足も長い。すぐに追いつかれた。

「ね、俺、セックスうまいよ」

 ラッキーは僕の前に回り込むと、口を開けて舌を突き出した。中央には丸い金属。そんなもので落ちるほど僕は暇人じゃない。

「お生憎様。今日はもう3本咥えてんだ」

「そこにはマネージャーさんも入ってるの?」

 だったら4本だ。8時間で4本。2時間に1本。デスクワーカーの缶コーヒー並み。

「3Pもできるよ」

 何だか今日は3P日和だ。僕は譲がラッキーに抱かれる妄想をした。奥を突かれて、柄にもないへそピアスがキラキラ光っている。なんだ、やっぱりこっちの方が似合ってるんじゃないの。思わず笑みがこぼれる。

「いいよ。泊めてあげる。だけど、3Pはしない」

 譲に殺されちゃう。ほら、今だって僕の妄想の中で恨めしげにこっちを見てる。僕とラッキーは並んで歩き始めた。

「ねえ、名前何て言うの?」

「マオ」

 出し渋るほどの名前じゃない。そもそもこれは源氏名だ。

「マオ? じゃあ猫ちゃんだ」

「からかってるの?」

「まさか。マオは中国語で猫って意味。俺は那覇斗ナハト」

 ラッキー改めナハトは聞いてもないのに答えた。アイネ・クライネ・ナハトムジークかよ。

「アイネ・クライネ・ナハトムジークみたいって思った?」

 どうやら声が漏れてたらしい。

「姉貴は哀音アイネって言うんだ。もう何年も会ってないけど。馬鹿な親だよな。モーツァルトなんて聴いたこともないのにさ。聴いたことがあったとしたら、アイネに哀しい音なんて当てないよ」

 どうやらナハトの親もロクデナシらしい。昔話をしながらナハトは始終にこにこしてる。僕はこいつを困らせたくて、意地悪な質問をした。

「なあ、もし子どもが生まれたらなんて名前を付ける?」

「うーん、愛羅アイラと武勇ブユウ」

 愛羅と武勇。アイラブユー。何だよ、お前も同じ穴のムジナじゃないか。


 ◆


 譲のマンションは大通りから一本入ったところにある。僕はマンションの前で一度立ち止まって巨大な直方体を見上げる。灯りの煌々と点いた部屋と真っ暗な部屋がテトリスみたいだ。僕は譲の部屋を指差し数えた。1、2、3、4、1、2。真っ黒の四角。しめた、譲はまだ帰ってない。譲が帰ってくる前にこのゴールデンレトリーバーを部屋の中に入れてしまいさえすれば、譲も追い出すことはできない。だってあいつは拾ったものに弱いから。

 エントランスをくぐると、ちょうど降りてきたエレベーターに乗り込む。ナハトもいそいそと着いてくる。4を押して「閉じる」ボタン。左から2つ目の部屋。鍵を差し込んで左に回すと手応えがなかった。掛けたはずの玄関の鍵が開いている。僕はナハトに玄関先で『マテ』を指示して扉を開けた。廊下も、その先のリビングダイニングキッチンも真っ暗だ。パチンと玄関の電気を付けると、譲が靴も脱がずに転がっているのが見えた。

「わっ、何してるんだよ!」

 僕は慌てて扉を閉める。扉の向こうでナハトがクゥンと鳴いた気がした。譲は顔だけ僕の方を向いた。その目は何だか水の底みたいに暗かった。

「どうしたの、こんなところで寝ちゃって。酔ってるの?」

「なんでもない」

 肩を貸そうとしゃがみ込むと、いつもとは違う香りがした。なんだか服も出ていったときとは違う。譲によく似合ってるけど、僕の趣味じゃない。

「知らない香水の匂いがする」

 思ってることがすぐ口に出てしまうのが僕の良くないところだ。譲は少し躰を起こして、すごく不機嫌そうな顔をした。だけど僕も怯んじゃいられない。玄関先で『マテ』をしてる哀れなゴールデンレトリーバーのために戦わなきゃならない。

「ねえ、譲。怒らないで聞いて」

 僕は一呼吸おいた。

「ゴールデンレトリーバー拾ってきちゃった」

 譲は凍りついたみたいに動かなくなった。

「あのね、譲、本当に犬ってわけじゃないんだ。つまり、人間だけど…… 譲、ごめんなさい」

 僕は廊下に横たわったままの譲をそっと抱きしめた。いつもなら直ぐ払い除けてくるのに、何だか今日は氷の彫刻みたい。躰も、心も冷え切っていた。

「譲……」

 僕は拾ったばかりのゴールデンレトリーバーを捨てる覚悟をした。これ以上、ご褒美のない『マテ』をさせちゃいけない。僕は最後に、譲の肩に数秒だけ顔を埋めた。――僕に捨てられたらナハトはどこに行くんだろう。でも、すぐに誰かが拾ってくれるよ。僕が気に病むことじゃない。そんなことを考えながら。

 譲の肩がほんの少し上がって、それから下がった。

「お前の部屋から出すな。餌代はお前が出せ」

 僕は勢い余って譲の頬にキスをした。


 ◆


「ナハト、入って。すぐ右の部屋。奥の部屋は入っちゃダメだよ」

 ナハトは律儀に、僕が『マテ』を命じたときのポーズのまま待っていた。たぶん、2枚の写真を重ねて差分を取ったら1ピクセルも差分が出ない。

 四畳半の小部屋は僕にはぴったりだったけど、図体のでかいナハトにはなんだか小さく見えた。そう、犬小屋みたいに。

「マネージャーさんに挨拶」

「しなくていいから」

 僕はピシャリと言う。

「お腹が空いたね」

 どこまでも図々しいやつ。でも譲のいるLDKに行く気はしなかった。僕は床においた段ボール箱からブロックタイプの栄養補助食品の黄色い箱を取り出してナハトに放り投げる。フルーツ味。

「なにこれ」

「ごはん」

「マオはいつもこんなものを食べてるの?」

「譲がいない時はね」

 ナハトはパッケージに書かれた味を確認して、フルーツ味かと不満げに呟く。何さ、美味しいでしょ、フルーツ味。文句を言いながらも黄色い箱を開けて金色の小袋を剥く。一口食べてやっぱり微妙な顔をした。

「チーズ味がいいよ」

 ナハトは食べかけのブロックを僕の口に押し込む。口の中の水分が全部奪われる感じがして、それから僕たちは少しぱさついたキスをした。